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2009年6月23日 (火)

 好き嫌いがないのはいいことなのだろうか?

僕は食べ物の好き嫌いがない。
もちろんくさややドリアン、シュールストレミングなど食べたことのないものもたくさんあるのだが、「食わず嫌い王決定戦」で出てくる程度の一般的な食べ物で嫌いなものは経験したことがない。
僕らが子供のころは食べ物の好き嫌いはとても良くないことだと教えられてきたし、学校の先生の対応も今と比べてだいぶ厳しかったのだけれど、幸い僕は昼休みまで給食とにらめっこして過ごすような羽目にならずに済んだ。

しかし、好き嫌いがないということは本当に良いことなのだろうか?

僕は物事を批判的に評価するのが苦手だ。
もちろん個人的な好みのようなものはあるにせよ、あまり好きだと思えなかったものに対しても「僕はあまり好きではないが、中には好きだという人もいるかもしれない」というように、考えを留保してしまう。
「なんか嫌だな」と思った時点で目をそらし、それ以上考えないようにしてしまうのだ。
これは考えようによっては逆の意味で自分の頭でものを考えないのと同じで、非常に良くないことであるように感じる。
何を好むか・嫌うかといった世界に対する姿勢の現れが「個性」であるとすれば、何も嫌わずにすべてを受け入れるというのは没個性の一つのかたちではないだろうか。

しかし、何かを否定するということは勇気のいることでもある。
少なくともその対象を好む人を敵に回すことになるし、自らの無知を公言する結果になるかもしれない。
本当においしいコーヒーを飲んだことがない人間が、知ったふりをしてファーストフードのコーヒーをまずいと言っていたら、それは滑稽でしかないだろう。

自分の頭でものを考えるということ、それは簡単なようでいて難しい。
その考えを人に伝えようとすればなおさらだ。
そしてここからが大事なのだが、僕たちはそのようにして誰かが僕たちに伝えようとする「批判的な考え自体」を批判的に評価しなければならない
何かを言い切るということは、それだけで不思議な力を持つものだ。
誰かが「おいしい」といったコーヒーはおいしそうに感じるし、「まずい」と言い切ったコーヒーはまずそうに感じる。
人間は無意識のうちに、感じたものをそのまま受け入れるのではなく、自分が考えたいように考えてしまうものだ。
先入観なしに「自分の考え」を持つことはとても難しいがゆえに、先入観を持たせようとする情報は注意して受け取る必要がある。

そのような文脈において、自分自身が物事を批判的に評価する訓練ができていないということは弱点であると思う。
好き嫌いがはっきりしている人が、そのような評価を内面できちんとできているのかどうかはわからない。
しかし、常にあいまいな態度を取り、判断を保留していてはそのような訓練につながらないと思う。
この日記においても、「嫌い」だと思ったことは率直に「嫌いだ」と表現できるようになりたい。

投稿者 yone : 2009年6月23日 21:07

コメント

なかなか共感できるねぇ。
相方と暮らすようになってからは特に、自分の↑そういう曖昧さを実感します。

投稿者 OIK. : 2009年6月26日 00:21

そうか~。
相方さんは好き嫌いがハッキリしたタイプ?

うちも結構そんな感じです。
でも理由なく直感で嫌いになれる思いきりがすごいと思う(笑)。

投稿者 yone : 2009年6月26日 21:43

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