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2009年5月30日 (土)
■ プロローグ
「エントロピー増大の法則」と、彼女は言った。
そのとき、我々はコーヒーショップの窓際の席に向かい合って座っていた。
その初夏の一日は今年一番の暑さで、シェードを下ろした窓越しにも太陽の熱気が伝わってきていた。僕はアイスコーヒー、彼女は何か長い名前のコールドドリンクを注文していたけれど、二つのグラスはだいぶ前に空になっていた。
「え?」
「エントロピー。ほら、世界は無秩序さがどんどん増えていくっていう話、あるでしょ?」
「あぁ、聞いたことくらいは」
「なんかね、最近そういうふうに感じるの」
彼女は空になったグラスの氷をストローでゆっくりとかき回した。
「つまり、片付けたはずの部屋がどんどん汚くなっていくわけだ」
「ちがうよ」彼女はちょっと困ったような微笑を浮かべて僕を見た。彼女が時折浮かべるこの表情が、僕は好きだ。
「わたしは色々なことをきちんとしようと努力しているのに、全体的に見ると物事はどんどん悪い方向に向かっていて、もうその流れを止めることができない。そんなふうに思ってしまうときがあるの」
「それは無力感のようなものなのかな?」
僕は、彼女がストローの袋を小さく折りたたんでいくのを見つめる。ふと『秩序』という言葉が脳裏に浮かぶ。
「運命に対する無力感、というのが一番近いと思う」
「そういうのを感じる出来事が何かあったの?」
彼女はかすかに首を振る。
「ううん。嫌なことがあったとかそういうのじゃないの。ただ、なんとなく漠然と不安を感じるときがあって、一度それを感じてしまうとどんどん考えが悪い方向に向かってしまうの。そういう感じってわかる?」
「どうだろう」僕は良くわからなかった。「将来に対して不安を感じるときはある。失業率は高いし、高齢化はどんどん進む。どうせ年金だって貰えなくなる。あと10年、20年したらこの国はどうなっているんだろう......ときどきそんなことを考えたりする。でも、たぶんそういう不安とは違うんだよね?」
「うん......ちょっと違う」
彼女は再び困ったような微笑を浮かべた。
僕は目の前にいる彼女の存在がわずかに薄れて向こう側の風景が透けて見えるような奇妙な感覚をおぼえ、ほとんど無意識のうちにテーブルの上の彼女の手を握っていた。
空調が効きすぎているのか、彼女の指先はひどく冷たかった。
その日の夜、僕は彼女を求めた。
本気で彼女が消えてしまうのではないかと不安になったわけではない。でも、彼女が間違いなくそこにいることを確かめずにはいられなかったのだ。
僕は彼女の存在を一つ一つ確認するように、ゆっくりと全身に触れていった。暗闇の中で彼女の姿はぼんやりとしか見えなかったけれど、僕は昼の光の中よりも彼女の存在をより鮮明に感じることができた。
香りや温もりが僕が良く知っている彼女のものであることを確かめて、僕は心の中に居座っていた冷たいものがようやく消え去っていくのを感じた。
彼女は僕にそっとキスし、耳元でささやいた。
「ずっと一緒にいてね。......お兄ちゃん」
投稿者 yone : 2009年5月30日 09:53