さ よ な ら の 前 に
invisible friendship


 きみの旅立ちの日がいつやって来るのか、
 僕はずっと前から知っていた。

 きみへの想いは、いつか自らの心を切り裂くことになる
 諸刃の剣であることを知っていた。

 何かを手にいれるということは、
 喪失の恐怖に脅える日々の始まりに過ぎないことを知っていた。

 ほんとうのシアワセなんて、どこにもありはしないと知っていたんだ。


           ◆     ◆     ◆


 昨晩遅くまで降り続いた雷雨に洗われた空がどこまでも高く晴れ渡り、澄んだ青空にただ一つ残された薄雲から顔を出した太陽の眩しさに僕は目を細めた。フロントウィンドウ越しに差し込む日光が肌に確かな温もりを伝え、春がそこまでやってきているのを改めて実感させられる。春の嵐ばりに吹き付ける風の冷たさだけが、冬の寒さを思い起こさせる唯一の存在だった。

 FMから流れてくる賑やかなDJのおしゃべりも今日だけはなぜか不快に思えて、スイッチに手を伸ばしかけたとき、唐突に音楽が流れ始めた。どこかで聞いたことのあるような、男性歌手の歌声を聞きながら僕は思う。確かに最近タバコの量が増えたかもな、投げやりな気持になってるかもな……と。

 駅前に近づくにつれて渋滞がはじまった。
 窓を開けてタバコに火をつけ、煙を吐き出しながら時計に目をやる。あと15分……。間に合うだろうか?
 行くべきか迷い、自宅を出るのが遅くなったのは自分の責任だけれど、動作の遅い車を見るたびに募るイライラはどうすることもできない。思わず浴びせかけたくなる悪態をなんとか飲み込むのが精一杯だ。

 駅前の立体駐車場に車を停め、駅ビルへの通路を走る。ビルの隙間を吹き抜ける風を浴びて、足下からぞくりとする寒さが上ってくる。こんな服装でくるんじゃなかったと、僕は思わず小さく舌打ちをした。

 久しぶりに来る駅の中はほとんど迷路だったが、新幹線ホームが上階にあるという記憶を頼りに、近くにあった階段を駆け上った。あいつの「ギリギリまで待ってるよ」という一言を信じて。「行くわけないだろ、バカ」……そう答えた僕の言葉を、あいつが信じていないことを祈りながら。

 階段を上りきった先。新幹線の改札口。
 あいつの姿を必死で探す僕の視線の先に、今まさに改札を通ろうとする見慣れたグレーのコートが飛込んできた。思わず「おいっ!」と、大声が口をついてしまう。

 びくりとこちらを振り向いたあいつは、次の瞬間「俺の勝ちだ」とでもいいたげな笑みを浮かべた。向こう脛を蹴りあげてやろうかと、殺意に近い怒りを覚えている僕の気持にも気付かず、あいつは小走りに僕に駆け寄ってきた。

「来てくれたんだ」
「フン、お前の頼みを聞いてやったんだよ」
「あぁ、そうかい。最後まで可愛くないやつだな、お前は」

 あぁ、そうだよ。僕は可愛くないやつだよ。最後までね。
 こんな分れ際までお互いをバカにし合ってるなんて、僕たちらしくていいじゃない。他のカップルはきっとこんなことしないよ。

 喧騒に満ちたプラットホームにアナウンスが流れる。
「まもなく発車時刻」

「さよならの前に、一つだけ言っておくけど……」
 あいつが突然神妙な顔つきになり、じっと僕を見つめた。……あいつがこんな顔をするのは、何かをたくらんでいる時に決まっている。不覚にも一瞬ドキリとしてしまった気持を押し隠し、僕は「なんだよ」とあいつをにらみ返した。

「……いいかげんに自分のこと『僕』っていうクセ直せよ、雪菜。二十歳過ぎた女の言うセリフじゃないぜ」
 そういって、あいつは僕の腕をとった。

 腕を引き寄せられる感覚に、今日だけは抗わなかった。
 あいつの腕の中。
 忘れられたくても忘れられない、懐かしい匂い。

 唇が重なる瞬間、久しぶりに穿いたスカートの裾をふわりと揺らして、春の風が通り過ぎて行った。